「明日オーナーが視察にいらっしゃるから、今日中にお迎えする準備をしてちょうだい。徹底的に準備するように!」
突然スタッフ休憩室に甲高い金切り声が響いた。
女将が乱暴な口調で従業員に命令しているのだ。
さらに女将は理不尽な命令を続ける。
「ちょっとあなた。仲居見習いなんて仕事してないも同然なのよ、だから今日は居残って完璧に掃除しておきなさい。」
その無茶苦茶で理不尽な命令は私に対するものだった。
そして極めつけに「視察の時に埃の一つでも残ってたら、あんたなんかクビにしてやるからね。」と私を睨み付けながら吐き捨てた。
(視察なぁ。もう十分見せてもらって終わってるんだよな・・・。)
私は苦笑いしたくなる気持ちを抑えながら
「わかりました。」と女将に返事する。
この女将は翌日の視察という名目のオーナー来訪で、自分が地獄に落ちることをまだ知らず威勢良く去って行く。
私は三浦紗香。
老舗旅館を経営する両親と兄の4人家族だ。
兄の英司と私は昔から両親に厳しく躾けられ育てられた。
旅館を生業にする者の最低限の姿勢について特に厳しく
「自分のことは後回しにしてでも、他人のために行動しなさい」
とこの言葉は何度も言い聞かされてきた。
小さい頃は両親の言っていることが全く理解できず、この厳しい家柄が本当に嫌だった。
でも両親からの繰り返しの教えは私の根幹になっていた。
学生時代はクラスで困っている子がいれば、放っておくことができず、知らず知らずに苦労を買って出るハメになることもあった。
学園祭の準備がなかなか進まず、学級委員の友達が困り果てていたときも。
自分の仕事ではなかったが毎日夜遅くまで、委員の友人と残って作業していた。
「毎日手伝って貰ってごめんね、家遠いのに帰るの遅くなっちゃうね。」
そう申し訳なさそうにする友人には
「ほら〜、うちって厳しいでしょ?だからなるべく家にいたくないからちょうどいいんだよ!」
と自然に笑顔で接することができた。
そんな私たちを見て他の友人達も一人二人と作業の手伝いをしてくれるようになり、最終的にはクラス全員で団結して作業し大成功を収めることができた。
こうやって両親に躾けて貰い身につけた所作や自分を律する姿勢が私の人生において、いつも自然に役に立っていると感じていた。
今となっては両親にはとても感謝している。
兄の英司は国内トップの大学で経営学を学び、さらにトップクラスのホテルで接客の実際を学んだ後、実家に戻り旅館の跡をついでいる。
その兄も私と同じく両親の言葉を守り、また感謝しつつお客様のためにとそれまでの学んできたことを最大限活かして経営に務めている。
その結果、今や高級旅館として国内の各地にグループの旅館を増やすことができている。
そして兄は精力的に各地をまわり、
「お客様のためになることなんだったら、そこはケチってはだめでしょう!考え得る実現可能な最大限の努力をつくしてお客様にサービスを提供していきましょう。」と各地のスタッフへと両親の教えを伝え、さらなる飛躍のため努力している。
一方の私は、自分自身の見識をもっと広げたいという思いから海外の大学へ行った。
「海外での経験か・・・。日本にはない良いところや、海外からのお客様へのさらなる理解のためにもいいことだな。すべてのお客様のために。だな。」
と両親も兄も私の海外行きを歓迎し送り出してくれた。
大学の卒業後も数年海外の高級ホテルで、アテンダントからコンシェルジュ・マネージャーまで様々な仕事を経験し、私なりに両親と兄に報いることができるよう努力を続けてきた。
そうして自分の仕事にも自信を持ち、ホテルマンとしてある程度活躍できるようになったころ兄からある話しがあった。
「グループ内のある旅館なんだが、今までは売り上げもお客様からの評価も良好に運営できていたんだよ。その旅館が少し前から売り上げもさることながら、顧客からの評価が明らかに下がっているんだ。」
「なんとか原因を突き止めて改善したくて、今までにも何度か視察はしているんだが本当の原因が掴み切れていないんだ。グループの中でも立地が良いし、売上の向上がはかれるようにしたいと思っている。」
兄はなんとも悔しそうな表情で続ける。
「そこで顔が割れていない紗香にその旅館へ潜入して貰って、なんとか本当の原因を見極めてほしいと思っているんだけど。どうだろう?」
私は今までとはまた違う視点から新たな勉強ができるかもしれないという気持ちと、両親と兄が作り上げてきた旅館をなんとか改善させたいという思いから兄の提案を受け入れ日本へ戻ることにした。
「お兄ちゃん、任せて!私今まで自由にやりたいことやらせて貰った分、うちの旅館のために頑張るね。」
そう答えた私に兄は嬉しそうにありがとうと言ってくれた。
売り上げが落ちているというその旅館は地方都市にあり、私は三浦であることは伏せて「新井紗香」として潜入することとなった。
旅館の中で隅々まで確認ができる見習い仲居として配属される。
私は日本の旅館での実際の接客への楽しみと共に、
調査に対する不安が入り交じった気持ちで旅館の初日を迎えた。
始業前のミーティングにて女将からスタッフへ私の紹介があった。
「おはようございます。今日から新しいスタッフが仲居見習いで来ました。」
「さっ、自己紹介してちょうだい。まったくこの忙しい時に、わざわざ未経験の仲居見習いを入れてよこすなんて・・・。」
女将はかなり不機嫌な様子でそう言って、私が自己紹介を始めようとするとさらに高圧的な態度でこう言い放ってその場から立ち去ってしまった。
「コネかなんだか知らないけど、私に迷惑かけないようにやってちょうだいね。」
(この女将・・・?今日はただ単に機嫌が悪いのか、それとも・・・)
すると私のサポートをすることになっているという仲居頭の杉本さんがフォローを入れてくれた。
「いきなり自己紹介は緊張するわね。新井紗香さんです、みんなで協力して新井さんが働きやすいように教えてあげましょう。」
「新井紗香です。どうぞよろしくお願いします。」と挨拶も早々にスタッフ達は各々の仕事へと散っていった。
(なんだか雰囲気が悪いな。終始こんな感じだったらお客様にも伝わってしまう。)
私は不信に眉をひそめてそう考えていると、悟ったであろう杉本さんが
「ごめんね、女将は今日は虫の居所が悪かったのかな?今日はちょっと忙しくなりそうで、みんなもちょっと気が焦ってたのね。わからないことは私に何でも聞いてね。頑張ろう!」
そう笑顔で取り繕っている。
それから私は杉本さんについて、この旅館での仲居の仕事を覚えていった。
元々私は、両親の仕事を見て育ったこともあり仲居の仕事についてはある程度理解できていた。
それに比べると、この旅館での仲居の仕事量はあまりにも多く忙しすぎる。
杉本さんはお客様に部屋を案内し一通りの説明を簡単に終わらせると足早に退室し、またフロントへ戻ってまた新しいお客様の対応をする。
「ごめんね、新井さん。今日はお客様が多くて忙しいの。一緒について回ってね。後で説明するからね」
あまりにも杉本さんの担当するお客様が多すぎるのだ。
しかし、他の仲居の担当人数が少ないというわけでもないようだ。
(女将の姿が見えないけど、女将は案内しないのか?)
忙しく動き回り、自分の休憩時間も削り走り回っている杉本さんに詳しく話しを聞くこともできず。
ようやく少し時間が空き休憩室でホッと一息つく杉本さんに話しを聞いてみた。
「お疲れ様です。いつもこんなに忙しいんですか?杉本さんも皆さんもろくに休憩されてませんよね?」
杉本さんは少し困ったような表情でポツリポツリと語り出した。
「女将が経費削減のためにね、人件費を削ってしまったのよ。」
「しかも女将はあんな人でしょう。あの女将、ちょっと高圧的でそりが合わない人もいたりしてね。でも女将は自分の気にくわない人に対しては、いじめのような態度や待遇をとるようになって。」
「昔から長くうちで働いていた優秀な仲居さん達は、みな辞めてしまって何も言えない人達が残ってしまってるという状況なのよ。」
「そうだったんですね。」
私は初日に違和感を覚えたあの女将のことだから・・・と少し合点がいった。
それでもあまりの酷さにあっけにとられていると杉本さんは少し慌てた様子でこう続け申し訳なさそうに謝ってきた。
「だから、新しい仲居見習いが来ることになるなんてちょっと驚いてたのよ。でも新入りのあなたにこんな話しを聞かせてしまってごめんなさいね。」
それからも毎日忙しい日々が繰り返された。
そんなある日、一人の仲居が女将にロビーで大声で叱責されているのを見かける。
「あんた、何やってるのよ。どうしてくれるの!。」
後からわかったことだが、あまりの忙しさに休みが取れないまま連日出勤してその仲居は疲労がピークに達していたようだ。
そんな時、ふらついてしまいロビーの花瓶を倒して割ってしまったというものだった。
「この花瓶はとても高価な物なのよ。とてもあんたの給料ではすぐに弁償できる代物ではないわね。しっかり毎月給料から天引きさせて貰います!」
女将はよりにもよって旅館の顔とも言えるロビーで、
しかもお客様のいる前でその仲居に激しい怒声を浴びせていたのだ。
当然周りのお客様は何事かと立ち止まり、静観している方・明らかに眉をひそめ嫌な顔をされている方がいる。
そこに杉本さんが間に入ってなんとか事を納めていた。
何日か働いてから
私は入った当初からの疑問を杉本さんにぶつけてみた。
「この旅館は仲居だけじゃなく、すべてのスタッフにおいて人員不足ではありませんか?」
言葉を濁して流そうとする杉本さんに、
何度か食い下がってみると困った様子だったがようやく教えてくれた。
「いろんな人がもう何度も、そういった提案はしているのよ。もちろん私もね。でも女将が新しい人の採用を許さないのよ。」
私はふと、ここに来る前に兄から預かり目を通した収益表を思い出した。あの書類上、人員数は正常な人数だった。
(なぜもっと早く気付かなかったの!明らかに人員数が偽装されている。)
この旅館の実態は私が考えていたよりも、はるかに最悪の状況だった。
(削減された分のお金は一体どこに?嫌な予感しかしないわね・・・)
そして業務の皺寄せが、仲居頭の杉本に集まっていたのも明白だった。
「よく続けていられますね・・・。」
気づくと私はふと沸いた疑問を杉本さんになげかけていた。
杉本から予想しない返答が帰ってきた。
「昔ね、一人で海外旅行に行ったときに泊まったホテルがスタッフも含めてとても素敵だったの。それでこの業界に憧れていつか海外のホテルで働きたいと思ってね。今は確かにきついけど修行だと思って頑張ってる!」
杉本さんはどんなに忙しくてもいつもお客様の前では笑顔だった。
その上、人がいない分他の仲居が少しでも楽できるようにと率先して仕事を引き受けていた。
(こんな、お客様・他のスタッフのためにと頑張れる人がきちんと報われる職場でないといけない!)
私はこの旅館の現状と杉本の苦労を目の当たりにしてそう強く思った。
その数日後、女将が終業間際にスタッフを集めて話し出した。
「明日オーナーが視察にいらっしゃるから、今日中にお迎えする準備をしてちょうだい。徹底的に準備するように!」
女将は相変わらずの乱暴な口調で従業員に命令する。
さらに女将は私個人にも理不尽な命令を続ける。
「ちょっとあなた。仲居見習いなんて仕事してないも同然なのよ、だから今日は居残って完璧に掃除しておきなさい。」
「視察の時に埃の一つでも残ってたら、あんたなんかクビにしてやるからね。」
スタッフは今日もいつも通り忙しかった上に、追加の仕事が増えることで明らかに疲れ果てた表情を隠せずにいた。
(視察なぁ。もう十分見せてもらって終わってるんだよな・・・。)
(こんな酷すぎる状態は早く終わらせなければ。でも明日で終わる!)
とりあえず女将に「わかりました。」と返事をしてその日の仕事を終わらせた。
明日は兄がやってくる日だ。今までの状況はすでに資料と共に報告済みだったが、さらに今日の件も追加で報告し明日が来るのを待つこととした。
翌日旅館のオーナーである兄の英司がやってきた。
私は旅館に到着する前に、兄と合流し隣に並んで入っていく。
何の事情も知らない女将は、他所行きの笑顔を浮かべながら兄に
「これはこれは、お越し頂いてありがとうございます。」と深々お辞儀し、頭を上げたところでようやく兄の隣に立っている私に気付く。
「あら、あなた仲居見習いの。そんなところで何してるの?」
「オーナーに失礼じゃないの。さっさと自分の仕事の準備をしなさい。」といつもの調子で私に命令してくるが、当然今日の私はそんなこと聞くこともなく兄の横に立ち続けている。
命令に応じない私に少し動揺している女将。その女将に兄が
「すみませんが、今手の空いているスタッフを集めて貰っていいですか?」
兄の横に平然と立っている私と、突然スタッフを集めろという兄を訝しそうに見つめる女将。
女将は今から何が起こるのかも知らず、言われたとおりにスタッフを兄の前に集めた。
スタッフが集まったところで、まず兄は私の正体について話し始める。
「実はこの新井紗香さんですが。新井と言うことでここで働き始めて貰っていましたが、本当の名前は三浦紗香です。」
「三浦紗香は、私、三浦英司の妹。この旅館の創業者である三浦家の一員になります。皆さんを騙した状況になりすみません。」
その場に居合わせた皆が理解するまでに、少し時間を要した。
しかしいち早くこのまずい状況に気付いた女将の顔がどんどん青ざめていく。
スタッフ達も状況を理解し始め、一応に顔を見合わせザワザワし始める。
そして私は自分が収集した情報と書類などの証拠を元に女将の追求を始めた。
「女将。私の収集した情報によると、かなり以前から人員削減による経費の削減を図っていらっしゃいますよね。しかし本部への報告書や収支表などの書類にその事実が記載されていませんが・・・。」
「あ…えと、それは…」
真っ青な女将の顔はさらに青ざめていき、目の焦点は定まっていない。
そこで私は追い打ちをかける。
「書類と実際にかなりの相違がある状態です。女将以外のスタッフのみなさんの犠牲の上で運営がなされているこの旅館の売り上げの浮いた分はいったいどこへ?女将はご存じですよね?」
女将はかなり動揺した様子で「それは、繰り越していまして。修繕の必要な箇所などのために・・・。」
と歯切れ悪くモゴモゴと厳しい言い訳を始めた。
そこで私は言い逃れできないよう集めた証拠の書類や帳簿を女将に提示した。
「これを見た上でも、同じ言い訳をするおつもりですか?」
そこには、女将が浮かせたお金を不正に動かしている証拠が事細かに記載されていた。
女将は観念した様子で、天を仰ぎ黙ってその場に膝から崩れ落ちた。
この様子を見ていた兄は私に続けて話し出す。
「当然、女将にはこの旅館を直ちに辞めて頂きます。そして女将によって、理不尽にこの旅館を去ることになった方達には可能な限り戻って頂きます。」
一呼吸置き、兄は集まったスタッフに謝罪と感謝を述べた。
「このような厳しく辛い状況になるまで、対応が遅れてしまったこと。皆さんに無理な仕事を続けさせてしまったこと。申し訳ありませんでした。それでもこの旅館を守ってくれてありがとうございました。」
その後女将は収支表やその他の書類を改ざんし、旅館の売り上げの一部を着服していたこと。またスタッフへのパワハラの詳細がさらに明るみになり当然解雇となった。
さらには正式に損害賠償請求として裁判で争うことになっている。
旅館はというと、無能だった女将がいなくなり、元々いた優秀な仲居さん達はじめたくさんのスタッフに戻ってもらった。
適正な人数になるまで新たなスタッフも迎えることができた。
そして同じグループから優秀な女将を迎えて早急な立て直しを図っており、顧客からの信頼も徐々に取り戻しつつある。
私の正体がばれてしまった後、杉本さんから「知らなかったとはいえ、失礼な口をきいたりして申し訳なかったです。」
と謝罪を受けた。
私はそんな杉本さんに感謝を伝えた。
「いいえ、兄が言ったようにあんな劣悪な環境においても杉本さんはじめスタッフ皆さんが尽力してくださったおかげでこの旅館は存続できたんです。」
「私の立場としては、本当にこの旅館を守ってくれたことに感謝しかありません。あらためてありがとうございました。」
二人で笑顔で握手を交わす。
それから私は杉本さんにある提案をする。
「実は私はこの旅館に来るまでは、海外のホテルで働いていたんです。杉本さんと同じような目標があって・・・。」
「今後、うちのグループで海外でも旅館を運営する事業が進められているんです。私は以前から旅館の海外進出を考えていて、そのために海外のホテルで経験を積んできました。」
私の話を聞きながら杉本さんは目をまん丸にし驚いた後、その目をキラキラさせて聞き入っていた。
「そして私と兄の準備も整って、いよいよ出店が現実的になってきました。ただ、優秀なマネージャーがまだ見つかっていなくて。杉本さんは優秀なマネージャーになれると私は思っています。良ければ一緒にやって頂けませんか?」
この私の提案に杉本さんは「こんな私でよかったら、もちろんお引き受けしたいです。」
と笑顔で私の提案を引き受けてくれた。
「The service by hotel staff was excellent!」
その後、海外で立ち上げた旅館は好調でお客様方には満足していただいている。
私の今までの経験と、杉本さんの「自分のことよりも人のため」という姿勢や心持ちが旅館とスタッフ達に浸透し良い影響を与えられている。
私はこの異国の地でも、両親から受け継いだ信念を胸に今日も笑顔でお客様のお迎えに向かう。
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