妊娠して五ヶ月。私は定期健診のために病院へ。
まさかそこで、元上司の寺本に会うなんて。
「お前、確かもう四十だろ?そんなおばさんが出産なんて、恥ずかしいと思わないの?」
寺本は笑いながら言った。
……酷い。
思えば私は、この男のパワハラのせいで大切なものを失った。
私はスマホに手をかける。
怒りを込めてアプリを立ち上げた。
彼を、黙らせるために!
私の名前は小田美穂。あだ名はオダミホ。
「なにがあだ名だ。フルネームじゃないか!」
夫の翔太からそんなツッコミを受けるたびに
「あんたと結婚したから、あだ名みたいに短い名前になったんだ!」
と、言い返す。そしてふたりで笑う。
こんなやり取りを、26歳で結婚してから40歳になる今までずっと続けている。
付き合い始めた学生時代から、お互いバカなことを言っては笑い合ってきた。
だけど、辛い日々が無かったわけじゃない。
子供が、欲しい。
そう口にすることが、重く苦しかった日々だ。
ふたりとも、子供は好きだった。
恋人同士だったころから、いつか欲しいねと話していたくらいだ。
若いうちに結婚して、いつか増える家族の為に、二人とも一所懸命に働いた。
だけど、私が当時働いていたIT関係の会社は、絵にかいたようなブラック企業。
朝から晩まで働いて、家にいる時間もほとんどないという生活だった。
それでも、32歳になったころ。
気持ちとしても、年齢的にもそろそろ、なんて話になった。
決意してほどなく、スムーズに女の子を授かったのだから、運にも恵まれていたと思う。
だけど、会社は私たちに優しくなかった。
仕事は増える一方で、産休も与えてくれず、相変わらず家には帰れない。
ここで仕事ができなければ、他の所でも通用できないという思い込みや、逃げたと思われたくないというプライドで、私は仕事を辞めなかった。
ちっぽけなものだ。
かけがえのない命を、この身に預かっていたのに。
なぜ、おなかの中の赤ちゃんのことを、なによりも大切にできなかったのか。
流産した私を、翔太は決して責めなかった。
「美穂のせいじゃないよ。僕もなにかできたはずだ」
彼の言葉は、空っぽに感じられた。
あの子が生まれて来られなかったのは、私のせいだ。
翔太は、私をフォローしてくれていた。会社を辞めるようにも言っていた。
そのたび、バカみたいに意地を張って、彼の言葉を無視した。
私は私自身を、自分勝手に追い詰めた。
一人で潰れるならまだしも、大切な赤ちゃんを巻き添えにした。
悪いのは私だ。私のせいだ!
結局、身も心もズタズタになってから、やっと私は会社を辞めた。
しかし、不幸はそれだけでは終わらなかった。
「もしかすると子供をつくる事自体、むずかしいかもしれません」
お医者さんにそう告げられた時、目の前が真っ暗になる気がした。
今回の流産がきっかけで私は妊娠しづらい体になってしまったらしい。
絶対に無理だ、と言いきられたわけじゃない。
だけど、そう冷静に考えるには、私は傷つき過ぎていた。
せめて、新しく子供が生まれた時、
「天国にはあなたのお姉ちゃんがいるんだよ」と伝えたかった。
そんな些細な願いも届かないのかと、絶望した。
それから長い間、私はまともに生きていなかった。
新しい仕事を探すどころか、家から出ること、寝床から起き上がることさえ辛いと感じた。
地べたに這いつくばって、あの子へ謝り続け、意識が無くなるまで泣き続けた。
翔太には、いっそ見捨ててくれ、離婚してくれと吐き捨てたこともある。
「そいつは出来ない相談だな!なんて、啖呵を切ってやろうか、とも思ったんだよ」
当時の話をすると、翔太は笑いながらこう言う。
実際のところ、彼は優しく、慎重だった。
私をこれ以上傷つけまいと、必死になってくれていたのだろう。
彼は否定したり、逆に無理に元気づけたりもしなかった。
ひたすら、抱きしめてくれた。
私までどこかへいってしまうのを、引き留めるみたいに。
翔太が支えてくれたおかげで、少しずつ私は、自分を取り戻していった。
5、6年かけて、ようやく生活について考える余裕が出来た。
3年前からは新しい会社で働いている。
前と同じIT関係の仕事だが、今度はちゃんと、自分のペースを見失わずに住む職場だ。
働けるようになった頃から、私はふたたび、子供について考えるようになった。
翔太も、同じ気持ちだったらしい。
だけどそれを、はっきりと言葉にすることは中々出来なかった。
二人とも、子供ができづらいことは理解していたからだ。
彼は私の体と一度壊れてしまった心を心配し何も言い出せず。
私はこれ以上彼に負担をかけてしまうんじゃないのかと口をつぐんだ。
夫婦とは皮肉なものだ。
お互いを気遣うがために、逆に私たちの関係はギクシャクしてしまっていた。
そんな関係が続いてから信じられないことが起こった。
私の体に新しい命が宿ったのだ。
私と翔太は泣いて喜んだ。
気づけば私も40歳。
だいぶ彼を待たせてしまった。
もう絶対に、後悔したくない。
今回は早々に会社に話し産休を取らせてもらい、
私たちは力を合わせて、笑顔で赤ちゃんを迎える準備に取り掛かった。
そんなある日のことだ。
定期検診を受けるために私は一人で病院に向かうことになった。
いつもは翔太が会社を休んで車で送り迎えしてくれていたのだが、
この日ばかりは彼の仕事が立て込んで送り迎えできなかったのだ。
「この子の名前をどうするかが問題ね。私みたいにオダミホだとちょっと間抜けに聞こえない?」
心配して会社から電話をしてくる翔太を和ませようと冗談をいってみるが
『名前についてはまた話そう。それより本当に一人で病院行ける?歩いて行くわけでしょ?』
と、落ち着かない様子だ。
「大丈夫!もう5ヶ月だよ。そろそろ安定期に入るしさ。それにたまに運動も必要なんだよ?」
名残惜しそうな翔太には悪いけれど、電話を切って病院へ向かった。
歩いたところで20分程度だ。
通りすがりの公園で、子供たちがはしゃいでいた。
わが子の将来を重ねて頬が緩む。
小学校が見えた時には、8年前のあの子が生きていれば、なんて思ってしまったが、今はあの子の弟をちゃんと産むことを考えなくっちゃと、気持ちを切り替えた。
ちゃんと気持ちを切り替えられるようになった自分を感じて少し気持ちが軽くなる。
よし。元気になってるぞ。私。
そう思った直後、あんな再会劇が巻き起こるとは。
一ミリも望んでいなかったのに。
「おい、お前」
病院の入口に差し掛かったところで、背中越しに男の声が聞こえた。
親しい人からだとしても、気持ちのいい話しかけられ方じゃない。
そのまま病院に入っていくと、男はなんと追ってきた。
「無視すんなよ、おい、オダミホ」
肩を掴まれた。力の込め方に親しみは感じない。
そのくせ、私をオダミホと馴れ馴れしく呼んでくる。
フルネームとしても、あだ名としても嫌だ。
体の向きを無理やり変えられた。
よろめくけれど、おなかをかばいながら立つ。
前を向けば、思い出したくもない顔が見える。
「人が声をかけてやってるのに、なんだよ」
怒っているような口調だが、にやにやと笑っている。
「寺本さん……」
寺本剛。
最初に勤めていた会社の上司だ。
あの会社は間違いなくブラック企業だったが、どす黒さの中心には、この寺本がいた。
少なくとも、私の記憶の中ではそうだ。
人を人とも思っていない男。他人は自分の役に立つ道具か、壊れるまで遊ぶオモチャ。
寺本にとって、周りの人間はそのどちらかだった。
8年前。彼は私と5歳も違わないが、既に社内で高い地位についていた。
業界でも名前が知れているらしいと、うわさを聞いたこともある。
実際に下についている私たちからしてみれば、嫌な話だった。
たしかに仕事は出来る男、と評価されてはいた。
しかし、実態はそうではなかった。
寺本は下につくものに八割方仕事を進めさせる。
そしてのこり二割と実績は自分のものにする。
会社は彼のそういったやり口を黙認し
むしろ、司令塔として優秀であるとすら評価していた。
えじきになった新人たちはたまったものじゃない。
自分たちの仕事に加え、寺本の世話までさせられる。
多くの新人が、オーバーワークに耐え切れず、辞めていった。
さすがにやりすぎじゃないかという声には
「俺が新人の将来を奪っている? とんだ勘違いだ」
と、言い捨て笑い返した。
「連中に将来なんてもんがあったなんて、笑わせンなバーカ」
社内で圧倒的な力をもつ彼に言い返せるものはいない。
「放っておいても、役に立ちそうにないやつに、わざわざ仕事を与えてやってるんだ」
少しでも不器用な様子を見せたり、自信の無い雰囲気があれば、その新人はたちまち寺本の道具にされる。
「これくらいでダメになるんじゃ、どこ行っても通用しないぜ」
とか何とか言って、自分の仕事を押し付ける。
無理だと言ったら根性なし無能と汚い言葉を浴びせ、
まともに考えられなくなるところまで追いつめる。
こんなことを繰り返して、寺本は出世していった。
だが、彼の悪事はそれだけでは済まない。
彼のターゲットになった人間が、女性であった時。
寺本はミスをした若い女の子に、責任を取れ、フォローしてやる代わりだと言って、関係を強要する。
寺本は既に結婚していたが、誰も彼の不倫を止めなかった
寺本と関係が切れた頃には、彼女たちは何も言えなかった。
何を言っても寺本を評価し必要とする役員たちによってもみ消されていったからだ。
私だって何かできていたわけじゃない。
新人たちが寺本の好きにされるのを、だまって見ていた。
奴に目をつけられないように、慎重に自分の仕事を進めるだけだった。
そんな環境にあって、私は妊娠した。
直接の上司である彼には、相談も必要になる。
私は寺本に妊娠の相談をしにいった。
「へー。あんた結婚してたのか」
会話らしい会話をしたのも、これが最初だったはずだ。
あまり気持ちのいい始まり方ではない。
「道理でねぇ。オダミホなんてなんか変だもんなぁ」
この、妙に音の響きがいい短い名前。
冗談の種にすることもあるが、本当は大切に思っている。
夫とふざけ合ったり、親しい人に呼ばれる分には、楽しい。
だがこの男にオダミホと口にされるのは、寒気がするほど嫌な気分だった。
「あ、あの。それでですね、産休を取らせていただきたくて……」
業務の量も減らして欲しいと頼んだ。
返ってきたのは、嫌そうな眼付きとバカにするような口調だった。
「はぁ?妊娠したのなんて、あんたの勝手だろ」
他にも「計画性ないんじゃないの?」とか言われた気もする。
思い出すのも嫌な、夫婦関係をからかうような言葉も浴びせられた。
産休はその後、何度相談しても
「はいはい。検討中検討中」
と言われて先延ばしにされ続けた。
結局、最後まで貰うことは出来なかった。
業務は、減らされるどころか増やされた。
完全に目をつけられたのだ。
「忙しいみたいな顔してるけどさ。どこの会社だってこんなもんなんだからね」
就業時間までに仕事を終わらせて帰ろうとする私に
寺本は新たな仕事を押し付けてきた。
もう無理だと思うたびに
「へぇ。逃げるんだ?」
と、にやにや笑う寺本の顔が浮かぶと、仕事を辞められなかった。
なにくそ、と踏ん張っていたわけじゃない。
実際に寺本へ反発して、退職すると言った新人が
「偉そうな逃げ口上、ご苦労さん。言っておくけど今のお前、自分が無能だってこと、大声でいってるだけだからね?」
などと、私たちの目の前で、泣くまで罵られていたのを、思い出してしまうからだ。
人格を否定し、逃げ道をふさぐ。最後は恐怖で支配する。
それが、寺本のやり方だった。
「何度も言うけど、妊娠なんてオダミホの都合でしかないんだから」
と、増やされ続ける仕事。
定期検診さえ、私はしょっちゅうすっぽかしていた。
「病院行く暇あったら働けるだろ」
と吐き捨てられ、また仕事を押し付けられる。
とても抱えきれる量ではなかったが
「妊婦さんは良いねぇ。旦那と仲良くしてただけのことで、仕事がきついのなんのと言えるんだから」
などと言われてしまえば、翔太のことや妊娠した事実まで否定されたようで悔しい。
彼からの言葉の数々は、私をおかしくした。
どれだけ酷いことを言われても、反発する気が起きなかった。
むしろ、ひたすら与えられた仕事をこなしていく。
それが、残ったわずかなプライドを守る、ギリギリの手段だから。
まるで呪いだ。
私は完全に、彼のペースに飲まれ、仕事をしながら我を失っていった。
失うのなんて、私自身だけでよかったのに。
そうして私は初めてできた自分の子供を失った。
振り返れば、どう考えても、あんな仕事のしかたが良かったはずがない。
「心と体。両方にストレスがかかり過ぎていたんです」
お医者さんの言葉にも、責められた気持ちになった。
しかし、私をここまで追い詰めたのは、間違いなく寺本だ。
流産のショックで、さすがにしばらく会社を休んだ後。
嫌味くらいは受け流すつもりでいたが。かけられたのは
「よかったなぁオダミホ!」
という、ありえない言葉。何がよかったというのか。
「これで厄介なモノは消えたな」
厄介なモノ。私の、赤ちゃんのことか?
「これで休まず仕事できるようになったじゃないか!」
パチパチパチ。
寺本は拍手を始めた。周りの人間にも、そうしろと促すように。
さすがに乗る人はいなかったが、誰も何も言わない。
怒りが、一瞬だけ激しく沸き起こった。
そして、その激しさに砕かれたように、私の心はなにも動かなくなった。
もう、どうでもよくなった。
会社は辞めた。
残ったのは悲しみだけだった。
過去を思い出して、目の前の寺本をみる。
あんなことがあって、
よく話しかけてこられたものだ。
つまり、なんとも思っていないのだろう。
私はしばらく、言葉が出なかった。
「ん? なんだオダミホ。また妊娠か」
なんだとは、またとはなんだと思う間もなく
「お前、確かもう四十だろ?そんなおばさんが出産なんて、恥ずかしいと思わないの?」
寺本は笑いながら言った。
「その年齢じゃ色々大変だろ。また流しちゃって泣くことになるんじゃない?」
ここまで時間がかかったのは、誰のせいだ。
思わず私は寺本を睨みつけると。
「なんだよ。気をつかってやったのに……」
と、言い出した。優しい言葉のつもりだったとは。笑わせるな。
「……ところで、寺本さんがなんで産婦人科に?」
つとめて冷静に尋ねると
「俺はモテるんだ」と、筋違いな答え。
「ああ。また新人の子ですか」
考えれば分かった。そういう意味か。
「やっぱり女は若い子がいいからな」
誇らしげに鼻を鳴らしながら、寺本は待合室のソファに腰を下ろした。
「新しい彼女の付き添いだよ」
私の妊娠を、赤ちゃんを厄介事、と言った寺本だ。
彼女とやらが、まともな扱いを受けているはずがない。
寺本は、自分がどれだけモテてきたかの自慢を続けた。
しばらく黙って聞いていた私だが、「そうですか。」
と言って、やがて待合室を離れた。
「まぁ高齢出産頑張れよ!」
背中越しにそう聞こえたが無視して立ち去る。
私は、スマホの使用が許可された専用スペースで友人に電話をかけた。
三十分ほどしただろうか。
青い顔をした女の子が診察室から出てきた。
まだ大学を出たばかりだろう。
二十代にもなりたてという感じだ。
さっきまで自慢話で盛り上がっていた寺本が、一転して静かにしている。
不機嫌に面倒臭そうに手続きを済ませ、女の子には声さえかけず、出口へ向かった。
「寺本さん」
と私は呼び止めた。怪訝な顔で振り返った彼に
「あなた人生終わったわね」などと、ぎこちなく凄んでみる。
女の子に、先に帰るように促した後、
「何言ってるんだ?」と、寺本はとまどっている。
今まで自分がしたことの仕返しをうけることがなかった男だ。
私の言葉はわからないだろう。
病院のドアが開き、一人の女性が入って来た。
最高のタイミングだ。
「あなた、お疲れさま~」
ねぎらいの言葉だが、からかうような口調。寺本の顔がみるみる青くなる。
「し、栞里!?」
栞里さん。寺本の奥さんだ。
「お仕事中だと思ったけど、産婦人科に何の御用?」
にこりともしない彼女が、じりじりと寺本に詰め寄る。
「か、会社の部下が調子が悪くて連れて来ただけだ!」
と、情けなく裏返った声で返事をする彼。
「え~?私が聞いていたのと違うな~」
彼女がスマホを取り出し、録音された音声が流れた。
『やっぱり女は若い子がいいからな』
流れ出したのは、さっきまで寺本が言っていたことだ。
青かった顔を真っ白にして、寺本は口をパクパクさせる。
そんな彼の横を通り過ぎ、栞里さんは私に近づいて
「ありがとね。オダミホ」
と、耳打ちした。
さっき電話をかけていた友人は、栞里さんだ。
前の会社では、親睦会とした称した、
社員の家族まで巻き込んだイベントがしょっちゅう開かれていた。
はっきりとは言わないが、強制参加。
ああいったところもまた、ブラック企業らしいところではあった。
寺本としては、せいぜい役員たちに顔を利かす機会というくらいにしか思っていなかったろう。
自分の妻が誰と話していたか。そんなことに関心があるはずもない。
栞里さんと私が同郷で、そのよしみで仲よくなったことなんて、知る由もなかった。
どんな目にあわされても、寺本に強く出られなかった理由の一つには、彼女のこともある。
今の会社に勤め始めて、私も自分を取り戻しだしたころ。
彼女は私たち夫婦のもとを訪ねてきた。
私が流産したこと、寺本のしたことを、謝罪するために。
「謝っても、謝り切れるものではないけれど……」
そう言いながら、彼女が頭を下げてくれた。
私はそのときやっと、そうかあれは寺本に追い詰められたからだ、と思えた。
自分を責めるだけではなくなったきっかけだ。
それから、私と栞里さんは度々話をするようになり、
オダミホと、親しみを込めて呼んでもらうくらいの友達になっていた。
「弁護士もつれてきてるのよね」
私が撮影した若い女性との写真を初め
不倫の証拠の数々を突きつけられた寺本は何も言えない。
「小田さん。オダミホさーん」
名前が呼ばれた。そうだ。私はそもそも、定期検診に来たのだ。
シオシオにくたびれた寺本と、清々した、という栞里さんの後ろ姿を見送り、私は診察室に向かった。
その後
結局、寺本夫婦は離婚した。当然といえば当然の結果だ。
栞里さんはそれなりの慰謝料と養育費を請求したらしい。
あの時病院にいた女の子は勿論、会社の新人だった。
だから栞里さんの追及は、会社にまで及んだ。
彼女の送った抗議文と、弁護士からの通達で、長年寺本のおこないに目をつぶっていた役員連中も、クビもやむなし、と判断したらしい。
寺本があの日、病院に来ていた理由は想像通りだった。
彼女に、自分との間に出来た子供を、産ませないためだ。
やはり、まともに人として扱っていなかった。
これは彼女の両親の怒りを買い、そちらへも寺本は慰謝料を払うことになった。
寺本は当初、すぐに再就職して、慰謝料なんて簡単に払えると余裕そうだったらしい。
しかし、それまでは出来る男として、業界に名を馳せていた彼だ。
女性に対しての不誠実さも、少なからず噂されていたようで、
裁判沙汰になったとわかるとわざわざ雇おうという会社もない。
アラフィフでコンビニやスーパーなんかのバイトをかけもちするのは大変だろう。
しかし、正直かわいそうとは思わない。
私はというと、無事に男の子を出産した。
翔太と彼の両親、私の両親も喜んでくれた。栞里さんもだ。
息子の名前を付けるのは、結構迷った。
私と同じ、合計四文字。それも親しみを込めて呼べていい気もしたし
もう少し賢そうな名前にしてもいいなと思った。
どんな名前にしたのかは想像にお任せしようと思う。
この子が大きくなったら、あなたには天国に兄弟がいるんだよと教えてあげるつもりだ。
それが、あの子の分まで、息子を愛してあげるってことだと思うから。
今日も静かに眠る横顔を翔太と一緒に見ながら
この尊い命をしっかり守っていこうと心に強く誓った。
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