「なんで…この子がここにいるの?!」
動揺を隠しきれない彼女の様子に、俺は…。
俺は、とある事情で、身寄りのない子供を引き取り育てる事となった。
結婚はおろか、子育てなど未知の世界だった俺が、突然小さな子供の
親代わりとなったのだ。責任は重大だ。
この小さな子に不自由させない為、それはもう朝から晩まで、がむしゃらに働いた。働いて働いて…結果…俺はとうとう過労で倒れてしまうのだった。
救急で運ばれた病院の病室で心配顔で俺を見る少女。
お見舞いに尋ねてきた職場の後輩が、その子を見るなり突然動揺しだした理由は…。
◆◆◆
俺の名前は早瀬直也。現在は会社員をしている。
親のネグレクトで小学校に上がる前に児童養護施設へと預けられて
そこで育った。
施設には様々な理由で入所している子供達がいたが、親にずっと育児放棄されて育った俺は、コミニュケーションの取り方がよく分からなくて 、中々みんなと馴染めずにいたんだ。
大人の顔色を伺う癖が抜けなくて、常にビクビクしていた俺は、施設の中で度々虐めの対象となっていた。
「お前、いつもビクビクしてて気が弱いな。なら俺がおまえの分のおやつ貰っても文句ねーだろ?」
どこにでも俺様のような奴はいる。気が弱かった俺は何も言い返せず良く泣き寝入りをしていた。だからこの日もそうだと思っていたんだ。でも、
「こら、駄目だよ。そのおやつを返してあげなさい。」
そう言って、仲裁に入ってくれたのは、最近この施設に入って来た年上の優しそうなお兄さんだった。
「だって、コイツ文句いってねーし。ならもらっていいじゃん!」
「文句を言ってないんじゃなくて、言えない性格なんだよ?それを分かってて君も言っているんだろう?」
「う……」
「言い返せないって事は、そうだよね?人を困らせちゃ駄目だよ?」
お兄さんがそう言って、そいつを諭すと「わかったよ!」と気まずそうに走り去って行った。そして、取り返してくれたおやつを、俺に手渡してくれたんだ。
「大丈夫?いつも一人でいるから心配していたんだ。今みたいに困った事があればいつでも僕に言って。僕が力になってあげるから」
「ありがとう…」
「僕の名前は小野正吾 っていうんだ。君の名前は?」
「…早瀬直也」
「直也か、宜しくね」
「うん…。」
これが、俺と正吾の仲良くなるきっかけだった。
正吾は穏やかな性格で、間違ったことをしても、決して怒鳴ったりするような事はしなかった。だから施設では皆に慕われていたし、いじめっ子も
正吾の前では大人しくしていたんだ。
「あ、直也。こっちにおいで。」
「うん。」
相変わらず皆の輪に入るのが下手な俺だけど、正吾は俺を見つけるといつも呼んで隣に居させてくれた。
その特別感に心地よさと、安心感を感じ、俺はすっかり正吾に懐いていた。
本当の兄の様に慕っていたんだ。
ある日、正吾が施設に来た理由を教えてくれた。
女手一つで育ててくれていたお母さんが病気で亡くなったからだそうだ…。
正吾が人に優しいのは、お母さんから受け継いだものらしい
お母さんも、いつも他人を優先に考える穏やかな人だったそうだ。
「損得抜きで人の為に動けることは凄い事だよ。その思いと行動は巡り巡って自分に戻ってくるからね。だから直也もそんな優しい人になるんだよ」
正吾が俺に言った言葉は、ずっと今も心の中で大事に育っている。
いつか俺もそんな人間になりたいと思った。
月日が経つのは早いもので、気が付けば6年が経ち
俺が12歳になった時、18歳になった正吾は退所する年齢となっていた。
正吾と会えなくなる寂しさに、俺の心は圧し潰されそうだった。
だけど正吾が去る前に、俺にこう言ってくれたんだ
「僕は直也を弟のように思っているよ。だから困った事があったら
いつだって頼ってくれて良い。いつでも僕のところに来てもいいからね。」
その言葉は、俺の心の中に染みこみ、独りぼっちじゃないんだという安心感で涙がこぼれた。
そして、この時心に誓ったんだ、もっと強い自分にならなきゃ駄目だって。
施設を出て立派に独り立ち出来る様になったら、胸を張って正吾に会いに行こう。それまでは寂しい事や辛いことがあっても我慢しよう。
◆◆◆
18歳になった俺は、施設の皆に見送られ退所した。
一人暮らしをはじめて、自分だけの家、自分だけの空間に心から
安心することが出来た気がした。
親の目に怯える事も無く、集団行動でストレスを感じることも無い自分だけの城だ。自由ってこういう事なんだなってしみじみと感じた。
新社会人となった俺は…慣れない仕事にミスの連発だった。
発注のミスをしてしまったり。会議に必要な書類をうっかりシュレッダーしてみたり。小さな凡ミスから、会社に損失を与えるミスまで
本当に様々な失敗を繰り返した。
取引相手に謝りにいった回数も数えきれない。思い出すだけでも胃が痛い。
でもそんな時、俺を庇ってくれる上司が、いつも励ましてくれた。「俺の若い頃はもっとやらかしたもんだ」と豪快に笑い飛ばしてくれる上司だったからこそ、頑張れたのかもしれない。
その上司が時々正吾と被る事があった。
年齢も性格も違うけれど、人に優しいところは、同じだと思ったんだ。
そしてそのたびに、無性に正吾に会いたくなっていた。
だけど、今会えば、昔のように甘えてしまう自分に戻る気がして、だから、そんな気持ちを押さえ込み、早く一人前になれるように頑張ろうと決めた。
正吾に会いに行くときは胸を張って頑張っている自分を見せたい!
そしてまた時は過ぎ、一人暮らしにも会社にも慣れたころ、俺にも後輩が出来ていた。美人と噂の佐々木杏奈だ。
狙っている男性社員が多いと噂に聞くが、振られた男性社員も多いという話も耳に届いていた。彼女は誰に対しても人当たりが良いが、社内恋愛をしないタイプなのかもしれない。
「早瀬さん、プレゼン用の種類が出来ましたので、確認お願いします」
「佐々木さん、ありがとう。仕事が早いね」
「早瀬さんに褒められたいからですよ」
「褒めてるよ。毎回凄いと思ってるよ。俺の新人の頃と大違いだ」
「え?早瀬さんが、ですか?是非そのお話を聞きたいです!今度 一緒に食事どうですか?」
「パス。思い出すだけで。胃が痛んで食事どころでは無くなるから。」
「えー?」
「ハイ。仕事仕事。書類ありがとう」
やや不満げな顔を浮かべながらデスクへ戻って行った彼女に、苦笑いを浮かべ、俺は書類に目を通した。
今は完璧に仕事をこなす彼女だが、一度だけ、彼女が入社したての頃、数字の入力ミスで取引先に損害を与えそうな事案が発生した事があったんだ。取引先に頭を下げて、何とか無事に解決させた事により、彼女は俺に信頼を寄せてくれるようになった。俺としては、俺も新人の頃上司に同じように守ってもらったから同じ事をしただけなんだが。それでも彼女は俺を優しいという。そうなんだろうか。
彼女は、会社の飲み会で隣り合わせになる事が多かったが、結構サバサバしていて、話しやすく気の合う後輩だと思っている。
相変わらず人見知りな俺には、とても貴重な人物だ。
◆◆◆
日々の忙しさに押し流されて気が付けば時間だけが過ぎていく
残業で遅くなった仕事の帰り。電車に揺られながらぼんやりと釣り広告に目をやれば芸能人が亡くなったという記事が目に入った。
そういえば、最近亡くなる芸能人のニュースが多い…。
「まさかこんなに早く…」と泣きながらインタビューに応えている芸能人仲間の姿は印象的だった。
そうだよな…人の命は永遠じゃないんだ
会いたいときに合わないと後悔する事もある
そう考えると、正吾の顔が浮かんだ。
会いたいという思いをずっと我慢していたけれど、もう会いに行っても
良い頃じゃないか。
社会人としても、一人暮らしも頑張れている今なら。
帰宅して、連絡をしようと携帯を握った瞬間着信が鳴った。
携帯画面には養護施設の名前が浮かび上がっていた。
「もしもし」と電話に出ると「早瀬君?」と懐かしい施設長の声がする
「お久しぶりです。 元気にされていましたか?」
そう声を掛けると「本当に久しぶりね元気だった?」という言葉が返ってきた。
「早瀬君、小野正吾君と仲良かったわよね」
「はい。そうですが、正吾がどうかしましたか?」
「今朝がた事故で亡くなったと連絡が入ったの。それで仲良かったあなたに連絡を…」
施設長の言葉が酷く遠く聞こえる
俺は全身の血が引いたように、身体が冷えて行くのを感じた。
死んだ…?誰が…?正吾が…?
先程電車で見た釣り広告の画像が頭に浮かぶ
テレビでインタビューに答える芸能人の声が頭の中で木霊した
その後の言葉のやり取りは良く覚えていない。
ガンガンと脳内で響く痛みと、遠くに聞こえる心配げな声
それでも何とか対応は出来たのだろう…。
気が付けば正吾の葬儀場の遺影の前に俺は呆然と座っていた。
写真の中から笑いかける正吾の顔は、施設を出た時よりもずっと大人びていた。
命が永遠じゃない事は知っている
だけど、こんなに早いお別れが来るなんて誰も思わないじゃないか
此処までがむしゃらに頑張って来たのは、正吾に褒めてもらいたかったから
…いや、対等な大人の立場で一緒にお酒を飲んで昔話しをしたかったから
なんだ…。
「…俺は…何のために頑張ってきたんだろう…」
零れる涙を拭うことなく、ただ正吾の遺影を見つめる
「そんな所で寝てないで、昔の様に名前を呼んで傍にいてくれよ」
俺は声を出して泣いた
自分に言い訳して、会いに来なかったことを心から後悔していた
「早瀬君、お久しぶりね。大丈夫?」
施設長が俺に気づき声をかけてくれた。
俺は涙を拭き「はい、大丈夫です」と返事を返すと、施設長は俺の隣にゆっくりと腰をかけた。
「正吾君、奥さんを病院へ送っている途中で脇見運転のトラックとぶつかったそうよ。二人とも即死だったそうで…可哀そうに、まだ若いのに…」
「奥さん…?」
その言葉を聞いて改めて遺影を見詰める
何故気が付かなかったんだ…確かに遺影と棺が二つ仲良く並んでいた。
「正吾、結婚していたんですか?教えてくれても良かったのに」
「正吾君、本当は言いたくて言いたくて溜まらなかったそうよ。
だけど早瀬君が一人前になるまで正吾君に会いに行くことを我慢しているって知ったら、「じゃぁ僕も我慢しなきゃだめですね」って…。
だから、結婚した事も、子供が出来たことも我慢して言わなかったの。」
互いに我慢しあっていたのか…
その結果、お互いに永遠に会えなくなってしまうなんて
そんなサプライズはいらなかった。
思わず心の中で毒を吐いてみる。
「子ども…?」
「ええ、あそこにいる子が正吾くんの 子供よ」
子供という言葉を思い出し、施設長に聞いてみると、棺の傍でぬいぐるみを抱いている小さい少女が目に入った。
「正吾君もだけど、奥さんも身寄りが無い方でね、可哀そうだけど施設に入ることになったの。葬儀が終わったら連れて帰る予定にしてるのよ」
施設長のその言葉に、再度少女に視線を向ける
少女は口を一文字に結び、ぐっと涙を堪えているようだった。
「パパとママはどこ?」
施設長が少女に優しく声を掛ける
「パパとママは天国にいってしまったの。」
「天国って?」
「そうね…遠いところよ。だから明里ちゃんは、おばちゃんと一緒に行こうね」
「嫌!明里も天国行くー!パパとママのところに行くのー!」
その言葉は、近くにいた大人達の涙を誘った。
こんなに小さいのに…急にパパとママがいなくなるなんて
どんなに寂しくて心細いのだろう…。
幼い子供でも本当は気付いているのかもしれない
もうパパとママに会えないって事に…。
「僕は直也を弟のように思っているよ。だから困った事があったら
いつだって頼ってくれて良い。いつでも僕のところに来てもいいからね。」
小さい少女の顔を見詰めていたら、そんな省吾の言葉が頭に浮かんだ。
今度は俺がその言葉を言う時じゃないだろうか…。
俺は少女にそっと手を差し伸べ
「俺と一緒に来る?」と声を掛けた。
少女は一瞬キョトンとした顔を浮かべ俺を見つめる
そして戸惑いながらも、その小さな手は俺の手をしっかりと握りしめた。
「何を言っているの、早瀬君!血の繋がりも無いし
一時の気の迷いで言っていい発言じゃないのよ?」
「正吾が昔、俺に言ってくれたんです。困った事があったらいつだって頼っていいって!いつでも僕のところに来てくれていいって」
「正吾君のその言葉は、今のこのタイミングの意味じゃないわ!
冷静になって考えて。独身の貴方がどうやって小さい子供を育てるの?
子育てにはお金だって沢山かかるのよ?児童相談に任せなさい」
「施設長の言う通りよ、早瀬君。保育園に通わせたら送迎だってあるのよ?
小さい子は身体が体調を崩しやすいし、
独身で会社員のあなたはどうやって時間の調整をするの。
会社にも沢山迷惑が掛かるのよ」
「でも、世間ではそれをやってる男性も沢山いますよね?」
「いるでしょうけれど、みんな大変な思いをしているのよ
身体を壊して泣く泣く施設に預ける親御さんもいるの。
貴方も、わかるでしょ?」
施設長の言葉が重い。
確かに施設には様々な理由で預けられる子供がいる。
俺の様に親に捨てられた子供ばかりじゃない。
一人親の経済的理由、無理して体を壊して泣く泣くの理由などもある。
正吾の母もそんな親の一人だった。
母親一人で仕事と子育てを頑張って…結果、病気になって亡くなり
正吾は施設に預けられたんだ。
正吾のお母さんはどんなに無念で、残した正吾の事を心配しただろう…。
今、正吾もまた小さい子供を残し、天国に行きたくても心配でいけないんじゃないだろうか?
「損得抜きで人の為に動けることは凄い事だよ。その思いと行動は巡り巡って自分に戻ってくるからね。だから直也もそんな優しい人になるんだよ」
正吾が俺に言った言葉は、ずっと今も心の中で大事に育っている。
忘れてはいない。だから。
「皆さんのおっしゃる事は、充分理解しています。
心から僕の事を思って言ってくれていることも…。
だけど、この小さい子供が自分と同じ境遇になることを正吾はとても悲しんでいると思うんです。そして、もし今の立場が僕と正吾が逆だとしても
きっと、正吾は今の僕と同じ事を言ったと思うんです。
我儘は重々分かっています。だけど、もしこの小さな少女が俺と一緒に暮らしたいと望んでくれるなら、その時は、その気持ちを優先してあげてもらえませんか」
俺の言葉を聞き、大人達が口を閉ざす
そして、施設長は小さい少女に目線を合わせて優しく声を掛けた
「明里ちゃんはどうしたい?おばさんと一緒に沢山のお友達がいるところで
暮らしたい?それとも、このお兄ちゃんと二人で暮らしたい?」
「…明里はお兄ちゃんと暮らしたい」
少女はそう言って俺の手を握りしめた
俺もその手をしっかりと握り返す。
正吾が安心して天国に行けるように
しっかりと、正吾の分まで、この少女を幸せにしてあげようと俺は心に決めたんだ。
少女を引き取るにあたって、施設長から里親制度の詳しい内容と
手続きの仕方を教えてもらった。
そして、その時に施設長と交わした約束は、絶対無理しない事。
無理だと思ったそのときは強がらずに施設に入所させる事だった。
こうして俺は少女、明里の里親となったんだ。
◆◆◆
そして、明里と二人の生活がはじまった。
明里は5歳。
俺が親に捨てられ、養護施設に預けられた頃と同じくらいの年だ。
正吾に出会ったのもその頃だったな。
初めての子育てで、慣れないことも多いけれど、正吾に似た優しい性格の明里が傍にいてくれる事は、俺の心を安心させてくれた。
一緒に暮らしだして思った事だが、明里は正吾と似ている部分が多いと思う。面影もそうだけど、性格も正吾に良く似ているのだ。
正吾との死別で後悔は残ったが、正吾の血を引く明里の存在は俺の支えとなったんだ。今までは胸を張って正吾と会う事が目標だった俺だけど、これからは正吾が安心できるように明里を立派な大人に育てることが俺の目標となった。
明里に朝ごはんを食べさせて、保育園へ送り届ける事が、俺の毎日のルーティンに加わった。
保育園のお迎えがある事を会社に伝えていたため、定時で仕事は上がれるようになったが、残った仕事は自宅に持ち帰ってこなす日々が増えていった。
夕飯、お風呂、洗濯を済ませ、明里を寝かしつけると結構遅い時間となる。
そこから仕事に取り掛かるから、睡眠不足の毎日だ。
流石に疲労困憊気味だが、施設長との約束があるので弱音は吐けない。
絶対無理しない事が条件だ。
無理だと判断されれば、明里は施設へ入所させられてしまう。
…そうなると明里も悲しむだろう…。
悲しませないようにも踏ん張らないと。
「早瀬さん。顔色悪いですね。大丈夫ですか?」
「ああ、佐々木さん。大丈夫だよ。少し寝不足なだけ」
「先程コピーを頼まれた会議用の書類ですが、誤字があったので訂正しておきました。最近、こんなミスが増えてますね。」
「ごめん、気を付けるよ。」
「やっぱり…お子さんを引き取った事が、早瀬さんの負担になっているんじゃないんですか?」
心配そうに 言う佐々木さんに、俺は苦笑いを浮かべながら
大丈夫だよと言葉を返した。
「心配してくれてありがとう。生活のリズムが変わったから、まだ身体が慣れていないだけだと思う。直ぐに今の生活に慣れるよ。
それよりも、凡ミス増やさないようにシッカリしなきゃな」
「そうですか?でも私で何か手伝える事があるなら遠慮なく言って下さいね」
「うん。ありがとう。じゃあ会議の準備をしようか」
佐々木さんがそう言ってくれるのはとてもありがたいと思う。
だが、誰かに頼ってしまえば、施設長との約束を守れない気がした。
何より、俺と明里の問題だ。
一緒に暮らしだした当初は、お互い距離感が掴めず、ギコチナイ感じだったけれど、最近の明里は少しずつ笑ってくれる様になったんだ。
明里は我儘も言わない良い子だ。俺の負担を少しでも減らそうとお手伝いもしてくれる。だからそんな明里に応えるためにも今、俺は頑張らなきゃいけないと思うんだ。
何より、俺自身、明里との暮らしは毎日の張り合いになっているから。
◆◆◆
大事な取引先のプレゼン資料の為、いつもより多くの仕事を持ち帰る日が続いた。深夜にパソコンに向かい作業をしていると煮詰まる自分がいる。
でも、明里の穏やかな寝顔を見つめていれば、もう少し頑張ろうと思う気持ちが自然と沸いた。
ピピピという電子音に驚き目を覚ますと、いつの間にか作業をしたままの体制で寝ていたようだ。急いで食事の支度をして明里を起こした。
「明里、朝だよ起きて、保育園に行くよ」
「はぁ~い」
寝惚け顔で明里が返事をする
俺は朝食をテーブルに並べ、赤里の着替えを手伝った
睡眠不足の身体に朝日は眩しく立ち眩みするが、疲れを見せる事なんてしない。今日も明里を保育園に送り届け、会社へと向かった。
「おはようございます、早瀬さん」
「おはよう、佐々木さん」
「今日の午後からの会議の資料の用意が出来ました」
「ありがとう、助かるよ。じゃあ会議室に向かおうか」
椅子から立ち上がった俺は、急に視界が歪むのを感じた
慌てて片手を机の上に着くが身体を支えきれず、俺はそのまま床に崩れ落ちた
「早瀬さん!?」
佐々木さんの声が遠く聞こえる
目を開けることが出来ず俺は、そのまま意識を失った。
◆◆◆
目が覚めると俺は病院のベッドに横たわっていた
どうやらあの後、病院へ救急搬送されたらしい
「気が付きましたか?」
真横から佐々木さんの声がする
視界を横に向ければ、佐々木さんがベッドの横に
座り、心配そうに俺を見つめていた。
「佐々木さん」
「びっくりしましたよ。急に早瀬さんが倒れたから。」
「会議は?」
「大丈夫です。ちゃんと引継ぎをお願いしましたから。今は仕事より自分の事を優先にしてください」
少し怒った口調の佐々木さんに、俺は「ごめん」と小さく謝った。
「やっぱり無理をしていたんですね。頼って下さいって言ったじゃないですか」
「無理しているつもりじゃ無かったんだ。だけどごめん…」
「早瀬さん、謝ってばかりですね」
佐々木さんのその言葉に、「ごめん」と俺はまた小さな声で謝った。
コンコンとドアをノックする音がして、看護師さんが部屋の中へと入ってくる
「気が付きましたか?ご面会の方が来られているのでお通ししても大丈夫かしら?」と俺に訊ねてきた。
「面会?」
「保育園の先生と、可愛らしいお子さんね。早瀬さんが倒れたっていう連絡が保育園に入ったから、先生が連れて来てくれたの」
「ああ、明里。うん、お願いします」
俺の言葉を聞いて、看護師さんが頷くと、明里と保育園の先生を部屋に通してくれた。
「先生、ご迷惑をおかけいたしました。赤里も心配させてごめん」
俺が明里に声を掛けると、明里は俺にギュッと強く抱き着いた
「何で…」
「佐々木さん?」
「何で、この子がここにいるの?!」
佐々木さんは明里の顔を見るなり、何故か激しく動揺をはじめた。
「何でって、この子が俺と一緒に暮らしている明里だよ。どうかした?」
俺の言葉を聞いて、佐々木さんは顔面蒼白になる
「ごめんなさい、帰ります!」と告げて病室から飛び出して行った。
どうしたんだろう?明里に「知り合いか?」と聞いても「知らない人」と首を横に振るだけだった。
彼女の様子がとても気になるが、今は思考がうまく回らない。
保育園の先生にお礼を告げ、病院に頼んで今日は明里と一緒に病院へ泊まる事にした。
腕に繋がった点滴がポツンポツンと落ちる様子をじっと見詰めながら
久しぶりに俺は凹んだ。
ベッドの横で明里が俺の手を握りしめている。
明里を不安にさせてしまった事を心から後悔していた。
「明里、一人はいや。」
「うん、ごめん」
施設長との約束に、意地になって頑張り過ぎていたのかもしれない
完璧じゃなくても良いじゃないか
少し散らかっていても、手抜きのご飯でも
明里に心配をかけたら、何の意味も無い
強がらずに、俺たちは俺たちのリズムで、生きていこうと改めて思った。
◆◆◆
翌日、退院報告を会社に入れたら、有休を使ってもう2・3日休んでいいと言われ、久しぶりにゆっくりとした休日を過ごすこととなった。
明里も保育園をお休みし、二人で存分にゴロゴロ生活だ。
こんな緩い時間をすっかり忘れていた俺は、存分に惰眠を貪り
明里もそんな俺に合わせ、一緒に昼寝をしたり、お絵描きしたりしていた。
そうして、心も身体もリフレッシュできた休暇が終わり、また
明日から会社と、保育園の生活がはじまる。
だけど、もう頑張り過ぎる事はしない。
俺たちの丁度いいリズムでいいのだから。
会社に出勤すると、デスクの上に溜まった仕事がお迎えしてくれた。
俺が書類と格闘していたら、佐々木さんが気まずそうに声を掛けてきた。「先日はお世話になったね。ありがとう」と礼を言うと
「お昼、ご一緒しませんか?話したい事があるんです」と提案されたので、俺はコクリと頷いた。
昼休みになり、会社の近くの公園まで移動すると、、佐々木さんと二人でベンチに座る。
思い詰めた表情を浮かべた佐々木さんは、俺に一枚の写真を手渡した。
「私の姉の家族写真なんです…。」
その写真を見て俺は目を丸くする
そこには正吾と、遺影で見た正吾の奥さん…そして明里の三人が笑顔で映っていたからだ。
「明里ちゃんは、私の姉の子供なんです。だからあの時凄く驚いて…」
「明里は佐々木さんの事知らないっていってたよ?」
「明里ちゃんと直接会った事は無いんです。私と姉は色々と訳アリで…。」
悲しそうにそう呟いた佐々木さんは、ぽつりぽつりと生い立ちを話してくれた。小さい頃からギャンブル好きの両親に、日常的に暴力を振るわれていたそうだ。お姉さんは、いつも佐々木さんを庇ってくれていて、二人でいつかこの家から逃げようと話していたらしい。いつも元気な彼女からは想像できないほどの苦労だったんだろう…。俺も親に恵まれていなかったから、その心の傷は痛いほど共感できた。
それから続けて佐々木さんは語ってくれた
高校生になった 頃、毎日のように借金取りが家に来るようになり、お金持ちの中年のおっさんに佐々木との縁談を持ちかけて、借金の肩代わりをさせようとしたそうだ。もうここにいては駄目だと、お姉さんが判断して、佐々木を児童保護シェルターに入れてくれたそうだ。
「酷い親だな…俺も親に捨てられて保護施設で育ったけど」
俺がそう告げると「そうなんですか?」と佐々木は目を丸くしていた。
「姉は、親に私の行方を探させないように、家に残ったんです
それが、私には負い目でした。」
それから何年か経った頃、姉から連絡が来て再会したそうだ。
その時、幸せそうな姉から、この家族写真を貰ったらしい。
やっとずっと抱えていた心のわだかまりが解けた。
そう感じていたのに…。
姉が事故で亡くなった事を知ったのは、病院で明里を見た後らしい
あの態度は混乱していたからなんだろう…無理もないと俺は思った。
正吾も優しい人だったが、奥さんも同じように思いやりのある優しい人だったんだな。そんな優しい人達の命を奪う神様に文句を言ってやりたかった。
「あれから考えたんですが、姉への恩返しの為にも…明里ちゃんを引き取らせてもらえないでしょうか?」
「え?」
佐々木さんの言葉に思わず思考が停止する
血縁から言えば、確かに明里は佐々木さんの姪っ子になるから
親族里親となるんだ。
だが、だからハイと即答は出来ない
やっと明里との良い関係が出来上がってきたんだ
俺は言葉に詰まり、考えさせて欲しいと佐々木さんに告げる
「分かりました。直ぐに返事が出来ない事は分かります。」
コクリと頷くと佐々木さんはそう呟いた。
保育園にお迎えに行き、そのままスーパーに立ち寄る
「夕飯は何にしようか?」
「明里、カレーがいい」
「カレーか、良いな。」
明里と手を繋ぎスーパーの籠を手に持つ
この生活が終わるかもしれないと考えると溜まらない気持ちになった。
◆◆◆
「早瀬さん、書類の確認お願いします」
「ありがとう。佐々木さん」
佐々木さんは俺の返事が遅いと、明里の事を急かしてくることは無かった。
会社の中ではいつも通り、仕事のやり取りをするだけの会話だけ。
だが、いつまでも先延ばしにする事は出来ない。
俺は佐々木さんに「今日の昼休み、公園で明里の事を話さないか?」と声を掛けた。
「あれからずっと考えていたんだ。明里の幸せについて」
「はい」
「今、明里は俺との生活にやっと馴染んできたんだ。だから今生活環境を変えるのは、あの子にとって相当なストレスになると思う」
「だから、引き取らせないと?」
「いや、引き取る引き取らないの件は今は保留にしておいて、先ずは
佐々木さんが明里と仲良くなって距離を詰めてくれる事を優先して欲しいんだ」
「仲良く…」
「知らない同士が一緒に暮らすことが大変だという事は身をもって知っている。だからこそ、二人には仲良くなって欲しいんだ。佐々木さんが良ければ
休日の都合の良い日に、家へ遊びに来て明里と遊んでやって欲しい」
俺の提案に佐々木さんは考える仕草をし、そして小さく頷いた。
「…そうですよね。身内と言っても面識が無ければ他人と同じです
明里ちゃんが私に懐いて、一緒に暮らしたいと言ってくれるように
私も明里ちゃんと仲良くなりたいです」
「うん。」
佐々木さんはもう一度頷き、俺の提案をのんでくれた。
あれから色々と考え、まずするべきは佐々木さんと明里が仲良くなることだと思ったんだ。先の事は分からない。明里がもう少し大人になり、佐々木さんと一緒に暮らしたいと言ったときは、快く承諾するつもりだ。
寂しくないかと言えば嘘になるが、選択するのは明里だと思っている。
施設と俺との暮らしを選択する時、明里の気持ちを優先させてやって欲しいと思ったように、次もまた明里の気持ちを優先させたいと思っている。
明里を幸せにする事が俺の目的なのだから。
そして、佐々木さんは俺の家に良く遊びに来るようになった。
最初は戸惑い気味だった明里も、少しずつ佐々木さんに懐いてきている
溜まった洗濯物を回している間、彼女が掃除をしたり料理を作ってくれる事が増え、俺の家事の負担は減ったので、彼女には感謝しかない。
だから、お礼も兼ねて三人で出掛ける機会も増えた。
「明里ちゃん、お誕生日のケーキどれが良い?」
「んーイチゴのたくさんのってるやつー」
「いいね!可愛いしおいしそう!これにしようね」
「うん!」
今日は明里の誕生日
正吾のお墓に三人でお参りし、明里の6歳になった報告をしてきた。
その帰りデパートに明里の誕生日ケーキを買いに来たのだ。
ぎこちなかった佐々木さんと明里も、今では本当の親子の様に
仲がいい。明里が佐々木さんと一緒に暮らしたいと言い出す日も
近いのではなだろうか、そう思うと少し寂しい気持ちになった。
「あら、お嬢ちゃん、パパとママと一緒にお誕生日のお祝いするのね」
「うん!イチゴでおいわいー」
「じゃあサービスしなきゃね」
ケーキ売り場のおばさんは、笑顔で星型のチョコプレートを追加してくれる、明里は「おほしさまー!」と嬉しそうに喜んでいた。
三人で出掛けるたびに親子と間違えられる事が増えたが
佐々木さんは困らないだろうか?
チラリと佐々木さんの顔を見詰めれば、満面な笑みでこちらを振り向いた
「じゃぁ帰りますか。パパ」
「かえるよー。ぱぱー」
思いがけないダブルコンボに思わず咽る
明里が俺の手を繋ぎ、三人で仲良く家路に向かって歩き出した
心の奥が少し擽ったいが、本当の家族になれたらそんな幸せな事は無いだろうと俺はぼんやりと考えていた。
沢山はしゃぎ、沢山のごちそうを食べた明里は、満足そうな顔で眠ってしまっていた。明里を布団に運び、上着を手に取ると佐々木さんに声をかけた
「遅くなったから送っていくよ」
「あの…ずっと考えていたことがあるんです」
彼女は俺の顔をじっと見つめながら呟いた。
「私…考えたんです。明里ちゃんの本当のお母さんになりたいなって」
「それは、明里と養子縁組したいって事だね?二人とも凄く仲良くなったからね…今ならなれるんじゃないかな」
「そうですね。だけど、明里ちゃんには早瀬さんも必要なんです。だから私達三人で家族になりませんか?」
突然の佐々木さんの言葉に俺は目を丸くした
「ちょっと待って!俺は大丈夫だけど佐々木さんはそれでいいの?
他にもっと良いやつとか」
「早瀬さん?私は好きでも無い男性にこんな事いいませんよ?」
「…うん、ごめん」
「早瀬さんは私との結婚は嫌ですか?」
「いや…嫌じゃないけど」
「じゃぁ、早瀬さんから言って下さい。」
「あ…っと、佐々木さん、俺と結婚して明里と三人で家族になりませんか」
「はい。喜んで」
俺は押されるような形のまま佐々木さんにプロポーズをしていた。
佐々木さんに好意を抱いてはいたが、もっと男らしくポロポーズ
が出来たんじゃないかと凹んだ事は内緒である。
そして、その後はバタバタと色々な手続きを踏み、俺達三人は本当の家族となったんだ。
正吾、また一つ報告が増えたので、近日お墓参りに報告に行くよ。
◆◆◆
そして時は経ち、今日は明里の中学の卒業式の日となっていた
あんな小さかった明里がもう高校生になるのか…。
「眼が腫れてるわよ。ハイ、ハンカチ」
「ありがとう、杏奈」
俺は杏奈からハンカチを受け取り、少し腫れた目にそれをあてた。
「本当に月日が経つのが早いわね。明里は姉に凄く似てきたわ」
「杏奈も美人だけど、お姉さんも美人だったからね」
写真でしか知らない杏奈の姉を思い出し、俺はそう呟いた。
「明里が思春期でパパ嫌いって言われないように頑張らないとな」
「それは大丈夫よ。明里は私が焼くほど直也さんにべったりだから」
「そうかなー?俺から見れば杏奈と明里の方が仲良くて、時々疎外感を
感じているけどな」
互いに焼きもちを焼いていじけていたらしい
杏奈と二人で見つめ合い微笑んだ。
「パパ―!ママー!イチャイチャしてないで、早く写真撮ろうよ!」
桜の木の下で明里が呼ぶ。俺と杏奈は苦笑いを浮かべ杏奈の元へ急いだ
「桜、綺麗だな」
「散る前にお花見行きたいねー。」
「良いわね。お弁当作って行きましょう」
「ママ、からあげ沢山作ってね!」
何気ない親子の会話をしながら、幸せをしみじみと感じる
俺も杏奈も幼少の頃は、そんな優しい環境に恵まれていなかったからだ
「花見の前に、お墓参りに行かなきゃな。
明里の中学卒業の報告と高校生になる報告だ」
正吾もきっと成長した明里を喜んでくれるだろう。
家のリビングに飾っている写真
杏奈が姉から貰った正吾と姉と、明里の家族写真だ
今日その横に、新しい写真を並べた
俺と杏奈と明里の三人が桜の木の下で微笑んでいる家族写真だ
この先もずっと幸せな写真が増えるように
この家族を大切にしていこう。
「正吾。約束通り、明里を幸せにするから、安心しててくれよ」
写真盾の中の正吾が「ありがとう」と言ってくれたそんなきがした
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